この数年、鍼灸などの東洋医学から離れていましたが
昨年から久しぶりに学びなおしたくなり、興味の赴くままいろいろな本を読んでいます。
そんな中で最近読んだこの本はとても興味深かったです。
神田橋條治先生という精神科の先生が書かれたもので、最近の医療における治療の大半が薬物投与となり、終わりなき従属、医療の囚人を作っている現状を危惧されていて、
身体の持つ「自然治癒力」に関心を向け、患者を自立させる道を模索される中で独自の感覚で探求し、見つけ出された鍼灸などの東洋医学に関する技術が紹介されています。
その本の中で紹介されていた施術者の姿勢は、
自分がセッションの中で大事にしたいと漠然と感じていたことが明確な言葉で表現されていて
霧の向こうにぼんやりと見えていた山の頂がくっきりと見えたことで、その頂へ向けて進める歩みがより確信に満ちたものとなりました。
“「いのち」が発する「邪気」は、「もう要らなくなったから、ここをなんとかしたい・・・して欲しい」という苦痛の叫びを「いのち」があげているということなのです。それを聞いて最小限の援助を工夫する「技のきめ細やかさ」が必要です。
そのためには「働きかける技」よりも「察知する技」の練磨がなにより大切なのです。
用いる技の作用をも、リアルタイムで監視し続け、やりすぎを自制するのに使うのです。
「切れ味の良い技」は劇薬ですし、施術者を「攻撃作用への耽溺」へ誘惑する麻薬です。
(中略)
いのちの意向に添うのは「受動性」ですが、その姿勢を施術者という主体が選んで、それを尊重して進んでゆこうと決心しているのですから、「主体的な受動性」です。いのちに関与するすべての職種の人々に推奨できる心得です。”
いくらその技術や概念が素晴らしいものであっても
目の前で起きている反応をそのままの姿で見ることなしに、その型の中に身体を押し込まれたり、限定された型から見た見立てでレッテルを貼られることは、本来私たちにとって窮屈なことです。
また、ひとつの技術や概念が身体という宇宙の全てを表現することは不可能なことであり、
宇宙や自然への謙虚さを忘れ、
目の前の身体を見ずして、概念の方へ身体を寄せて解釈していくことは攻撃にもなり、
何のために、何をしているのか?という基本を見失うことにもなるのだ・・・ということを改めて考えました。
施術者がセッションの流れの主体となり、その中で「攻撃作用への耽溺」へ入り込んでしまうことは比較的起こりやすいことでもあります。
だからこそ、
常に目の前で起きていることをただ見ること。
その可能性に開いていること。
その姿勢を忘れないでいたいなと思います。