先日、久しぶりに海外のプラクティショナーの方からSEのセッションを受けました。
そこで感じたのは、
私はこんなに深く凍りついていたんだ
こんなに世界に圧倒されていたのか
ということへの身体を通した深い実感でした。
さまざまな学びから
知識として自分自身の状態を理解していましたが
体感を伴う今回の気づきは
私にとってとても大きなもので
自分という存在をより深く理解し
受容していく助けになりました。
世界に圧倒されていて
世界が悲しかった
どうすることもできないものに
対峙し続けることしかできない悲しさ
そんな子どものころの感覚が蘇り
その悲しさとともに
それを感じていたころの自分と繋がることができた安らぎと安堵がそこにはありました。
自分のどこかに記憶されている
さまざな感覚や感情に触れて感じていく。
それによって
そこにあるものが
無くなるわけではなく
そこに触れ繋がることで
関係性が変わり
自分の一部として親しみのある
大切な愛おしいものとなっていく。
SEを受け、学び始めて
10年以上になりますが、
今回のセッションで感じた
自分の中にある深い感覚に触れるには
それだけの年月が必要だったのでしょう。
2〜3年前のある時、
自分の感覚のどこか深いところで
防衛反応のスイッチが入りっぱなしになっているところがあるんだ。そう気づくことがあり、
その気づきをぼんやりと持ちながら
過ごしてきましたが、
その反応の背景にあるものを身体を通して理解し
少し触れることができたように感じています。
何かに気づいてから
その状況に動きが生まれるまでに
2〜3年の期間があり
その動きが完了して
自分の人生の流れに統合し直されるのに
そこから3〜4年の時間を要する。
時にはもっとかかることもある。
自分の変化はとてもゆっくりしたものだと
子どものころから認識し
そんな経験を何度も重ねてきたので
何かしら興味のあるテーマが現れたときには
死ぬまでにわかったらいいな
もしわからなかったらその次の人生でもいいかな
なんてできるだけ長い時間をいつも自分に用意しています。
どうしようもなく
あるところへ向かわざるを得ない
そんな感覚のまま流されている自分。
それを一歩ひいたところから眺めている自分。
そんな主体とも客観ともつかないような2つの視点を揺れ動きながら生きていて
ここからどんなところへ流れついていくのか
その途中では
どんな景色を見ていくのか
私自身が楽しみにしています。