クライアントさんから
セッションのご感想をいただいたり
感じられている変化について
お聞きするとき
みなさんの
調整力のすばらしさに感じ入りながら
私はほんとうに何もしていないのだなと
感じることがかさなり
提供しているセッションについて
改めて考える機会がありました。
そこで気づいたことは
私は「場のちから」を
かなり信じている
ということでした。
セッションでは
自分の身体を感じながら
セッションの場や
受け手の方の身体
そこにある響きに耳を澄ませながら
ただそこにいる。
基本的にしていることは
それだけです。
出てこようとしている動きを
制限することに慣れていて
表現の仕方がわからなくなっている
お身体に対して動きを引き出す
お手伝いをすることはあっても
私が主導してどこかを目指したり
何かを掘り進めたりするようなことはしていません。
それは
必要なのは「場」であって
修正ではないと
感じているからです。
心と身体の主体は
その方だけのものなので
私は可能性に開いて
ただそこにいたいと思っています。
そう思うようになった背景には
10代の頃の経験があります。
10代の頃から
周囲の人たちの
あまり表で積極的には
話さないような
抱えている思いを
聞く機会が不思議と多く
その経験の中で感じていたことは
人は安心を感じられる場さえあれば
自分で調整しながら
自ら答えを見つけだしていく
ということでした。
話を聞きながら
その人の問題を見抜いて
アドバイスするのが
上手な方もいるけれど
そういったことは不得手でした。
人間や状況をコントロールするという発想に
あまり魅力を感じないということも
影響しているのかもしれません。
私は答えを持っていない。
私がもっている答えは自分のものだけ。
そう思っています。
話をしながら
ともに落ち着ける場が
形成されていく時間が
とても好きでした。
そんな場ができあがっていくと
その場を共有している相手は
自ら何かを見つけて
少し元気になったり
自分を取り戻したりしていく
そんな姿を見ているのがただ好きでした。
それは私にも元気をくれるものでした。
そんな経験から
人がただくつろいで
自分に戻れる場所
いつかそんな場を提供できたらいいなと
長い間漠然と思っていました。
それはお店や公園など
物理的な空間をイメージしていたのですが
イールドに出会ったとき
これは私がしたかったことだ…
とびっくりしたことを覚えています。
私たちには幸せになる自由も
不幸になる自由もあります
変わる自由も
変わらない自由もあります
それは他人が判断するものではなく
タイミングも人それぞれ
だからよくなることを
強要もしたくありません
よくなってもいいし
そのままでもいいと思っています
そんなふうに思っているので
もう少し明確な指標が
自分の外側に必要なタイミングに
いらっしゃる方にとっては
快適な場ではないかもしれません。
派手な刺激や
人生を変える!というような
感じのものより
静かだけれど
深く満たされていくものに
惹かれてしまうのです。
先日もクライアントさんと話をしながら
評価や分類
新しい目標や大きな変化
そういったものに
価値か置かれやすい社会の中で
ただ在ることを
ともに体現していくような場は
あまりないのかもしれない。
そんなことを思うことがありました。
あるのは
ちょうど良い間合いと
静かな観察だけ
そんな場からはじまる
可能性の広大さに
私はワクワクしてしまいます。
場を共有する方の内側に
すでにあるものが自然と表れてくるような
もし身体が表現したいことがあるのなら
少しでものびのびとそれをしていただけるような
場を提供できるようこれからも
探究を続けていきたいと思います。




