世代を越えて引き継がれていくもの

先日、村上春樹さんの新刊「猫を棄てる 父親について語るとき」を読みながら、
あるSomaticExperiencing®︎(SE)セッションの経験を思い出していました。
 
それはSEトレーニングに参加している間の休憩時間に、ブラジルからアシスタントとして参加されていた方から受けたセッションでした。
 
 
セッションの中で、部屋のある空間に何か暗さのような、目をそこへ留めておきにくいような
そういったあまり心地の良くない印象を抱いていた時、セラピストの方に「その空間には誰がいますか?」と聞かれました。

そう聞かれてふと思い浮かんだのが、母と長兄でした。
そう伝えると、そこへ取り組むためにお父さんにサポートになってもらうのはどうかと提案され、特に抵抗を感じなかったので自分のそばで父が見守ってくれているイメージをしてみることにしました。
 
SEでは、このように何かに取り組む際に、自分のリソースとなるものを身近に置いたりイメージすることで、より容易に取り組めるような環境を整えることがあります。
 
父がそばで見守っているイメージをしてみると、別に嫌な感じもしないけれど、特にサポートになっている感じもしないなぁ、とその状況を正直に伝えると
ではお父さんの後ろから、お父さんのお父さん、おじいさんにサポートしてもらうのはどうでしょうか?と提案があり、再びイメージしてみましたが、うまくイメージすることができませんでした。
 
というのも、父が乳幼児の頃に祖父は第二次世界大戦で戦死しており、私が会ったことがないのはもちろん、父にも記憶がなく、父から祖父の話を聞いたことは全くありませんでした。
 
そのことを伝えると、今、そばに立ち祖父を見ている父はどんな表情をしているかと聞かれました。
父へ意識を向けてみると、突然、堰を切ったように胸の奥からかなしみが溢れ出てきて、抑えることが出来ずに私は勢いよく泣き出していました。
肩を震わせ、嗚咽に近い声を出しながら。
子どもの頃から人前で泣く経験があまりなかったので、自分のその大きな反応をどこか驚きながら静かに見ている自分もいました。

そして、父がこんなにも深いかなしみを抱えていたこと、それを自分が気づかないうちに受け継いでいたのだということにも驚きました。
 
父から子どもの頃の話を聞いたことはあまりなかったように思います。まして、祖父のことを話題にした記憶は一度もありません。
言葉を介した形で父の抱えてきたかなしみや想いを共有したこともない中で、言葉を介さないやり取りを通して父と共有し、自分へと受け継がれているものを目の当たりにした時に、戦争はまだ続いているのだ…ということをつよく感じたことを覚えています。

 
長兄が産まれた時に父が、自分は父親という存在を知らないから、自分が父親としてどうしたらいいのかわからないんだ。と話していたことがあったと母から聞いたことがあります。
そんな父親を知らないという痛みに近いような想いを抱えながら、父親として生きる葛藤はどれほどのものだったのでしょう。
 
こうして振り返ってみると家族の中には、父親不在というかなしみと父親という存在を強く求める怒りにも似た衝動を静かに内在させていたように思います。
母も父とは違った意味である種の父親不在という経験をしています。そこにも時代や戦争の影を感じずにはいられません。

 
衝動(活性化)は引き継がれるものでもあり、時代に応じてどんな形で表現されていくのかは変化していきます。
 
私の中にも引き継がれたさまざまな衝動があり、それが暴れ出さないようとても注意深く抑え込みながらともに生きてきました。
そうしてきた体感があります。
今では人生の中で常に漠然とそこにあり続けた衝動からだいぶ解放されてきた安堵があります。
その変容のサポートとなったひとつがSEでした。

 

両親はそれぞれの環境の中で生きてきたことで経験してきたことを背景に、少しでも良いものを子どもには与えていきたいと、大人としての背中を必死に見せようとしてくれてきたことが今ではわかります。
そして、その後ろには同じように子どもたちを生かすべく必死に生きてきた祖母2人の姿を感じます。
 
自分の中に受け継がれてきているものを目の当たりにする時、自分に根付くその深さに茫然と立ち尽くしてしまうこともありますが、私に受け継がれてきたある種の歪みは私の人生の中で少しずつ形を変えて、自由にしていきたい。これからの世代へ少しでも気持ちの良い世界を繋げられたら。
そう思います。
 
 
 
 
我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴にすぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。(猫を棄てる/村上春樹)