ただ在る

最近ふと思い出す人がいる。
 
SomaticExperiencing®︎(SE)のトレーニングで出会ったシニアアシスタントのデニスとソランジェだ。
 
トレーニング期間中、二人からのサポートを本当にたくさん受けた。
こうして時間が経てばたつほど、それがわかる。
 
印象深く記憶に残ることがある。
それはあるSEトレーニングでのことで、そのモジュールで扱うテーマが自分と深く関わりのあることだったようで、トレーニング2日目の朝に起き上がることがしんどくなり、しばらく部屋で休んでからクラスに参加した。
身体の虚脱傾向(ほうっておくと身体が崩れ落ちてしまうような感覚)が強く、姿勢を保持してるのがきつかったので、椅子には座らず、部屋の一番後ろで壁に寄りかかり、直接床に足を投げ出して座り、身体の支えを増やしながら講義を聞いていた。
 
少し離れたところでデニスとソランジェが椅子に腰掛けて講義を同じように聞いていて、
こちらを気にかけて見守ってくれていることに少ししてから気がついた。
その時間、行動や言葉にしないサポートをずっと感じながらクラスに参加していた。
その時の2人からのサポートは今でも身体で思い出すことができる。
その身体の記憶は今でも私を励まし続けている。
 
私が外へ表現することなく深いところへしずめていたものをその深いところで理解してくれている人たちがいることを感じる経験は私にとってとても大きなもので、
それに対して何かをしようとするわけでもなく、ただ気づきそこにいてくれたということが、
私を身体の深いところから安心させ、癒されていく流れを静かに後押ししてくれたようにも感じている。
 

2人からセッションを何度か受ける以外で話をする機会は少なく言葉を交わすことはあまりなかったけれど、
こうして振り返ってみると言葉や行動にしないサポートをたくさん受けていて、2人が3年かけて私に残してくれたものの大きさをトレーニングを終えて3年以上経った今ようやく理解し始めている。
 
 
本来のサポートってこういうものなのだろう。
相手を本当に尊重し、信頼したサポートはこうして静かに響いて広がっていき、
それを受けた相手は自分のペースで本来の自分を少しずつ取り戻していく。
 
ただ自分を理解し存在を認めてくれる。
人はそれだけで十分なんじゃないだろうか。
 
適切な距離にただ在る。ということの力、可能性。
それ以外に人が人にできることはないのかもしれない。そして、それをすることの難しさ。
 
見守ることの大切さや難しさをよく著書の中で言われていた河合隼雄さんを思い出す。
 
経験、技術、身体性。
これらが足りないと深い自らの変容を待つその手前であれこれいじりたくなってしまうのだろう。
私たちはほとんどの時間をそこに費やしているのかもしれない。
「ただ在る」ということの道を深めていきたい。
 
人の佇まい、プレゼンスは奥深い。