最近、ニュートラルについて
考えることが続いている。
これまでマヤ暦では
自分の中に相剋を抱えていると
言われたり
手相では左右の線が
別人のようだったり
身体を調整していただく方に
両極を持っているからこそ
中庸であろうとする傾向が強い
などと
似たようなことを
言われることがあった。
10代のころから
ニュートラルであろうと
し続けてきた自覚がある。
それは
偏ることを
とても怖れていたのかもしれない
今はそんなふうに思う。
私のニュートラルは
ある種の正しさに
とても厳しかった母のもとで
その正しさに
固定されることに
抵抗するように
私が選んできた
方法でもあるのだろう。
起きている出来事や
人のことを
自分の一方的な視点で
判断したくない
できるだけ
たくさんの視点をもって
その対象を理解した上で
自分の決定をしたい
そう思ってきたのは
私なりの母への反抗
正しさとの戦い
でもあったのかもしれない。
偏らないように
ニュートラルであるように
ずいぶん力を使ってきたんだ
ということに気づいた。
その力を少し
緩めていきたくなっている。
今の私にとってのニュートラルは
偏れること。
偏ることを
自分に許せること。
この体験を
満足するまでした後に
私が向かうニュートラルは
どちらでもない場所ではなく
どちらでもある場所なのだろう。
これまでの身体の使い方より
もう少し力が抜けていて
自分が立っている場所から
果てしなく水平線が
広がっていくような
どちらでもない地点と
限りない広がりを含む
空間がある場所
そんな場所に
近づくのではないかと
楽しみにしている。
行きつく場所は
全然違う場所かもしれないけれど
それもまたよし。
どちらにも重心をかけない世界から
どちらにも行ける自由がある世界は
どんなふうに見えるのだろう。




