流れ

ひとつ前のBlogで書いたように
昨年の夏から秋にかけて
身体がスローダウンしていくような待ちの時間がありました。
 
その時期を過ぎて、
少しずつ動きが出てきたいま感じることは、
自分の動き方や人生の潮目が変わるような
変化の前には待ちの時間があり、
その時期の流れに抵抗せずに
自分のコントロールで流れをいじろうといないこと
そのことの大切さについてです。
 
 
数ヶ月間にわたるひとつの待ち時間が終わり始めた頃
3年くらい見守ってきた関係性、
10年くらいかけてゆっくり取り組んできた自分自身のこと
数十年かけて付き合い見守ってきたもの
それぞれできることをしながら待つともなく時機を待ってきたものたちが
同時にひとつの区切りを迎えるようなタイミングが重なっていきました。
 
 
そんな時を迎え、
「何事にも時機がある」
その事実を体験し、
これからますます
コントロールから離れ
身体の声に耳を澄ましながら
力を抜いていこう。
そう思うようになりました。
 
 
 
人生の流れの中で
何もしていないような(何かをしていない)
意味がない、無駄だと思われやすいことの中に
意外と大事なことが含まれていて、
その時間の過ごし方に
それぞれの方の生きるということへの
向き合い方や感性が表れているように感じています。
 
 
 
昨年の夏にこの流れが始まった頃、
身体の混沌とした停滞感を感じ
それが決して快適とはいえなかったので
自分でできる調整をしていました。
それでもなんだかしっくりこなくて
なんだろうなと思っていた時に、
「あー、今はそういう時期なんだ」
という身体を通して納得するような気づきがあり、
どうにかしようとすることをやめた途端に
身体の混沌も気にならなくなりました。
 
 
 
この待ちの期間は
これが済んだら何かあるはずと先に期待するわけでもなく
動きの少ない日々に諦めて、投げやりになるでもなく
プロセスが収束していくのを
待つともなく待っているような日々でした。
 
 
必要な時間が経過すると、
ふと小さな動きが生まれ始めて
そこから新しい流れが少しずつ始まっていきます。
 
その動きが始まるまでの時間に
何もしないことに落ち着くことができずに
小手先で何かをいじろうとしてしまうと
また進む道は違ってくるのだろうと思います。
 
 
身体にもつ不安がある時は
この時期にいじってコントロールしたくなるものです。
 
何度もトライ&エラーと調整を繰り返しながら
身体と流れの共鳴を少しずつ深めていく探求を楽しんでいます。
 
 
 
 
今回のことを振り返っていた時、
数年前に経験した今回のような待ちの調整期間を思い出しました。
 
それは、Yieldの1Dayワークショップに参加し
参加された方と交換ワークをしたことで始まった身体のプロセスでした。
それは自分の身体感覚では、
受精卵が細胞分裂をしながら形を変えていく
発生に関わるところに触れるような
プロセスのように感じていました。
 
身体の反応としては毎日10〜12時間くらい寝ているような日々が始まりました。
どこか奥深いところが調整されているような感覚があったので
必要な調整が終わったら自然と睡眠時間も短くなっていくだろうと
身体が寝たいだけ寝ていました。
その状況が4ヶ月ほど続き、
もしやこのままずっと寝続けるのだろうか・・・と思い始めた頃に
外的な要因によって、睡眠時間は今まで通りに戻っていきました。
 
 
外的な要因とは、
2頭目の犬を家族に迎えたことでした。
全く予定にないことでしたが、
そうする以外になかった。
そんな感覚でした。
 
そこから流れのトーンや速さが変わり
その後、約半年の間にニューヨークへ1人で3回も行くという
ぐーぐー寝てばかりの日々からは想像もつかない動きへと繋がっていきました。
その3回のニューヨーク行きもそうする以外なかった。
そう表現するのが一番しっくりきます。
 
 
あの寝てばかりの日々が明けた後の流れによって
立ち現れてきた経験が
今の私を作ってきたんだと
こうして振り返ってみて初めて気が付きました。
 
ぐーぐー寝るにまかせてよかった。
 
 
 
内側からの自然な動きが出てくる前には
十分な休息が必要なものです。
その休息にどのくらいの時間が必要かは
人によっても、タイミングによってもそれぞれです。
 
 
 
 
 
この「Pendulum Wave」のように
身体や人生の流れにもいろいろな時期があり
一体となって大きく美しい動きを見せる時もあれば
バラバラで統一感もないような混沌とした時もあり、
そこには良いも悪いもなく
その時にあるものを体験していく。
そういうものなのだろう。