この映像を初めてみた時
自分がただの生きものとして世界になじんでいくような
その心地よさに
しばらく何度も繰り返しみていました。
それと同時に
このままではいけない
何かしなければいけない
と何かに急かされているような
いつも誰かに言われているような
そんな場所に自分を置いていることにも気づき
そこからそっと離れて
社会性という荷をおろし
身体をもつただの生きものとしての自分の姿に
戻っていく安堵も感じていました。
イールドを学び始めたころに
この映像の中で謡われている能楽師の安田登さんが
能のワキ方について表現されている言葉に出会いました。
「ワキは自分が何もできないことを知っています。
だからこそ、全身全霊を込めて「何もしない」をします。
ワキの共感を英語でいうならば「empathy」でしょう。
「sympathy」が相手の心との一致だとするならば、より積極的に共感する、
能動的な受容能力が「empathy」なのです。
全身全霊を込めて自分を無にすることによって、その真空状態に相手の情緒の
自己への流入を招く共感能力、それがワキの力です。」
全身全霊で何もしないことをすることによって
そこに生まれる真空に流れ出てくるものがある。
このワキの在り方にとても興味を惹かれて
イールドのセッションを通して、ワキのような在り方を探究していた時期がありました。
その頃に参加したイールドのワークショップでご一緒した方に、
私が何もしなければしないほど、
自分のプロセスが進んでいった。
そうフィードバックをいただいたことがあり、
安田さんの言葉を通して想像し、探究を続けていたワキという在り方に
少しだけ触れることができたような
そんな気持ちになったことを覚えています。
安田登さんの著書「あわいの力」が読みたくなり、
本棚から出して久しぶりに読み返しました。
この「媒介」という意味をあらわす古語が「あわい・あわひ(間)」です。
つまり、ワキとは、「あっちの世界」と人間を結ぶ「あわい」の存在ということができます。
「あっちの世界」は、自然でもいいし、霊でもいいし、神でもいい。
人間と人間以外の世界をつなぐ役割を、ワキ方は担っているわけです。
私たちが身体感覚というとき、それは自分の内部で起こっているように感じてしまいますが、それを感じている自分という内部があるかぎり、身体は外の存在です。
しかし、「外」といっても完全な外部ではありません。環境や他者という外部との境界に身体は存在します。
いいかえれば、身体という「媒介」「あわい」を通して、人は外の世界とつながっているのです。
つまり、身体というのは自分にとってのワキであって、すべての人が「あわい」を生きているということができます。
だからこそ人間は、身体という「道具」とのつきあい方に習熟することで、あらゆるものとつながることができると考えています。身体は、「あっちの世界」と人間をつなぐ、呪術性を帯びた「道具」なのです。
もちろん、あなたの「身体」も。
「心(こころ)」だけで物事を理解し考えようとするだけでなく、身体という外の世界とつながる「媒介」を通じて身体感覚で思考する。それが「心(こころ)」の副作用が蔓延する現代から次の時代にかけて、生きるために必要な力となっていくと思うのです。
安田登さんは、「ワキ」は大きな絶望に直面し、生きる意味を見失った人が、内に抱えてしまった大きな欠落を克服し、新たな生を獲得するために、漂白の旅に出る、旅人を演じることがあり、
人は誰しも欠落を抱えて生きていて、ちょっとした出来事をきっかけに、その欠落と向き合わざるをえなくなり、「ワキ」としての人生を歩み始める可能性がある。と言います。
ワキという存在、在り方。
そこに自分がなぜこんなに惹かれたのか、
本を読み直してみて気づいたことがありました。
身体を通してあわいを生きていく。
そんな探究をしずかに続けていきたいなと思います。