流動性と深刻さ

感情について
新しい気づきを得た体験によって
私の感情との関わり方や距離感は
それ以前と少し変わっていきました。
 
 
それは数年前に参加した田畑さんのWSの帰り道での出来事でした。
 
 
その日のWSのテーマは「Spine/脊柱」で
脊柱へのアプローチについて学び
一緒に参加していた方とワークをし受け手となっていた時、鳩尾の裏側あたりを起点に脊柱を後弯させたいような身体の動きが出てきました。
 
その動きのサポートをしていただきながら
ゆっくりと脊柱の動きにまかせている時に
小学校の体育の時間に初めて倒立前転を試した時
倒立からスムーズに前転へ移行できずに
そのままマットへ背中を強く打ちつけた記憶が出てきました。
 
倒れたまま数秒間息ができず動けずにいた後、
呼吸が戻ってきたのでまたすぐ練習を再開して
その授業の中で倒立前転はできるようになったと記憶しています。
(子供の頃、体育が一番好きな教科でした)
 
その当時以来、初めて思い出した記憶でした。
 
 
 
そのWSの帰り道に歩いていると、
またふとその時の記憶とともに
心細さのような不安が出てきました。
おそらくそれは背中を強く打って息ができなかった数秒間、たまたま側に人がいなくて
助けも呼べず、誰にも気づいてもらえていなかった当時のものだったのだろうと思います。
 
 
こんな風に日常の中で
何かのきっかけで過去の出来事で感じていた感情を思い出すことがありますが
そんな時はその出てきたものと共にいるようにしています。
 
 
そんな気持ちだったのだなと
出てきた感情をしっかり感じようとしていた時
後ろから車が来たので端へよけ、
車が通り過ぎた後に改めて感情へ意識を向けてみると
そこに感じていたものは見当たらなくなっていました。
 
 
あれ?と思い、
しっかり感じようとしてみたのですが
やはり身体の中にその感情や感覚はもう見当たりませんでした。
 
普段ならこのような時にはある程度の時間をかけて
出てきた感情に向き合っていくので
同じように時間のかかるものだろうと
自分の中に先ほど出てきた感情を探していましたが
なかなか見つけられず
なんとか感じようとしている自分にふと我に返り
頑張って感じるものでもないな…と少し可笑しくなり笑ってしまいました。
 
その時に感情が思い出されてから、身体から抜けていくまで、ほんの数十秒の出来事でした。
 
 
身体の流動性が高まっていると
感情はこうして身体を通り過ぎていくものなんだと
普段よりあっという間の出来事に驚くとともに、
身体の視点から見た感情の動きを体験したことで
私は今まで自分の感情をシリアスに扱い過ぎていたのかもしれないな。
そんな気持ちにもなりました。
 
 
身体の流動性が高いと
様々な出来事によって感情が湧き上がってきても
身体の中でプロセスが進み
必要な時間をかけてその動きは完了し、
自分の中を通り過ぎていくものなんだという体験は
自分の感情との関係性を変えるものとなりました。
 
 
 
感情が身体に留まるには理由があるということ。
 
そこには構造上の滞りや神経系システムの固定化されたパターンがあり、そんな膠着しているところに新しい動きを与えてみる。
 
循環のさせ方が変わると流れが変わり
形にも変化が見られ
システムが再調整され
世界を見る目(認知)が変わっていく。
 
そんな流動性が高まることによる変化を
自分自身の経験やクライアントさんたちのプロセスから何度も見させていただいています。
 
 
 
このWSの日以来、
自分の気持ちが停滞しやすくなっていたり、
どこか深刻さを帯びている時は
身体の流動性が下がっているのだなと
できる身体の調整をしながら
理性的に分析して処理するでもなく
シリアスにとらわれるでもなく
その気持ちにただ気づいているような
適度な距離感でそばにいながら
身体がプロセスしていくのを待つようになりました。
 
 
 
今回の出来事は、
WSに参加したことによって身体の流動性が高まっていたこと、そして背中を強打しその後すぐに回復したという出来事だったので、
感情が立ち上がってきてから抜けていくまでほんの数十秒でしたが、
そのプロセスに要する時間は身体の状態や出来事の内容によってそれぞれなのだと思います。
 
 
 
 

たまに犬たちと散歩に行く海はいつでも人がいなくて私たちだけ。歌ったり、突然走りだしたり、拾い食いしたり、それぞれ好きなように過ごして帰ります☺︎