安心

先日友人と、
社会のさまざまな「型」がなくなっていくこれからの時代は、自分の外側に頼れるような固定されたものがどんどん無くなっていくだろうから
支えになってくるのは自分自身の感覚で、自分の中に「安心」を持つことは本当に大切になってくるのだろうね。
そんな話になりました。
 
 
その話をしながら、
初めて身体で「安心」を感じたSomatic Experiencing(SE)セッションの経験を思い出していました。
 
 
それはSEを学び始めた頃に、以前のこちらのブログでご紹介したことのある
ブラジルから来られていたシニアアシスタントの方から初めて受けたセッションだったように記憶しています。
 
 
そのセッションでは眼球を扱う流れになり(眼球は神経系の状態を繊細に表す場所でもあります)、
そのプロセスの中で、私の身体の休息はぐんぐんと深まっていきました。
 
 
休息が深まり、あるところへ到達した時
「今までの人生でこんなに安心したことはないかもしれない。
安心ってこういうことを言うんだ・・・」
そんなことを身体を通して感じていました。
 
 
その「安心」の身体感覚とともに居るうちにふと、
「こんなに休んでいてもいいのだろうか。
ちゃんとしなくては。」
という気持ちが立ち上がってきました。
 
 
身体が緩んでほっとしていると、
こんなに楽をしていてはいけない。
リラックスして楽しんでいてはいけない。
緩んだら怒られてしまうから、ちゃんとしていなくては。と身体が身構えていく。
 
 
それは自分の育ってきた環境の一部をよく表している
その当時、私の身体が持っていたパターンのひとつでした。
 
 
 
ストレス耐性の高低があるように
安心やリラックス、幸せを感じることなど
快適さへの耐性にも高低の個人差があります。

 
 
緊張することに慣れている身体にとって
安心することやリラックスすることは
簡単なことではなく
むしろ危機を感じてしまうことでもあります。
 
 
私の場合、
早期の身体的記憶が安定的な安心を
うまく見つけることができないものだったのだろうと
理解しています。
 
 
これは身体の反応なので
発達の初期段階で身につけたような
より深いところに根差すパターンの場合
認知で解決することはとても難しく、
自分の意思や考えを変えることで
対応しようと試みると
あるところまでは進むのですが
ある時、認知でできるのはここまでだと
限界を感じるタイミングがやってきます。
 
 
そんな時はやはり身体の声に耳を傾けていくことが
おすすめです。
 
 
 
 
このセッションの中では、
身体が身構え始めようとしていることを伝え、サポートを受けながら
今までのパターンだった「ちゃんとしなくては」には進まず、そこにある「安心」へ再び戻っていくことができました。
 
 
 
「安心」の中にただ居るということを、
自分自身が制限をしてしまうことがあり
「安心する、休息する。」ということが
簡単なことではないということを知る経験となりました。
 
 
 
 
安心を身体に育てていく。
休息を深めていく。
 
 
このことについて
現在進行形でゆっくりと探究しながら取り組み続けています。
取り組み続けていく中で、
いろいろなことが自己完結していた私は
もう少し世界と触れ合いたいと
感覚の触手を外の世界へ少しずつ広げています。
 
 
 
自分の中に安心があるからこそ
外の世界へ興味を広げていけるものです。
受け入れられ、帰属することは
世界の中で安全を感じるための基本です。
それを家族というホームで作ることができたなら
それはとても幸せなことですが
その機会が十分ではなかったとしても
自分自身の中で育てていくことができます。
 
 
 
 
身体という自然は
私たちの知性を超えた
大きな可能性を秘めたものです。
 
 
身体との関係性を深めていくことは
いつからでも、何歳からでも
遅いということはありません。